松井は何も悪くない

球場に潜む危険のお話。以下、11月20日付New York Times。

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傘。

今日は少し、傘の話をしてみようと思う。スポーツコラムのテーマとしては奇妙に思われるかもしれない。だが、意外やこれが重要な話であり、野球の試合におけるファンの大ケガがメディアの話題になりつつあることと、直接関係のある話題なのだ。話のオチをばらすわけではないが、現在、MLBの各球団は観客の怪我に対する責任を回避するために、チケットの裏側に法的な約款を記載している。それも間もなく終わりを迎えるかもしれない。
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まずは傘の話に戻ろう。傘といっても、それは2011年8月25日のヤンキースタジアムにおいて、オークランド・アスレチックス対ヤンキースの3回、ファンの人たちが使っていた傘である。

アンディ・ズロトニックさんは50歳。マンハッタンで不動産業に携わっている。
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彼はその試合、すこぶる良い席のチケットの手にしていた。1塁ベース後方の3列目、ベースから50フィートという位置に座り、横には13歳の息子と、息子の友人二人も連れてきていた。その日は雨であり、試合開始が90分遅れた。試合の序盤も雨は断続的に降りつづいたが、ズロトニックさんは当然ながら頑張って観戦を続けた。親たるもの、3人の興奮する少年を野球の試合に連れてきたというのに、悪天候が一体なんだというのか?

実際のところ、相当な悪天候であり、シーズンのはじめならば順延になっていたかもしれない。だが8月の終わりであり、プレーオフを狙っていたベテランぞろいのヤンキースは、日程上に2日の余裕しか残っていなかった。ハリケーン「アイリーン」が東海岸を襲い、週末にかけて他の試合も中止になる心配があった。
「今日の試合が中止になると、実に、実に日程上大変なことになります」
アナウンサーは試合開始が遅れている間に言った。
「この試合は両チームとも是が非でもやりたいところですね」

3回表になって、雨足がまた強くなった。当時アスレチックスでプレーしていた松井秀喜は、ヘルメットのひさしに溜まった雨のしずくをユニフォームの袖で払った。開いた傘の群れに囲まれたズロトニックさんは、松井も、投手のフィル・ヒューズも見ることができなかった。ゆえに松井が火の出るような打球を1塁側に放っても、彼には知るすべがなかった。
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乾いた打球音が聞こえた(文字通り)1秒後、ズロトニックさんは地面に倒れ、苦痛に呻き、目と左の顔面からは血が流れ出ていた。

松井のライナーのファウルはズロトニックさんの左目の眼窩底骨を完全に砕き、鼻骨と上顎の骨にはヒビが入った。掛けていたチタン製のメガネはへし曲がったが折れることはなく、メガネのおかげで命拾いをしたと彼は思っている。形成外科医のヘンリー・スピネッリさんはこの6日後に手術を担当したが、彼の話によると、ズロトニックさんの怪我はブラスナックル(メリケンサック)で顔面を殴られたに等しいものだったという。
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松井が打ったあと、実況アナウンサーのひとりは一塁線にヒョウ柄の傘が落ちていることに気づき、言った。
「あのヒョウ柄の傘に大きなシミがついていますね」

ズロトニックさんは思慮深く、用意周到で、かつ執念深い男である。怪我がゆっくりと回復する間、彼はMLB30球団における、傘に関する規定を調べた。その結果、8チームは雨で試合開始が遅れている場合を除いて傘の使用を禁じており――そのうち2球団は持ち込みも禁止――、他のチームの多くはヤンキースと同様に、「他の観客の観戦を妨げない限りにおいて」使用を認める、というものであった。読者もお気づきかと思うが、そこには安全面での記述はない。そこでズロトニックさんは、さらに膨大な――本当に膨大な――数のケガについて調査を始めた。メジャーリーグの球場において、強烈なファウルボールや折れたバットによって観客が怪我を負った例である。

そしてヤンキース球団社長のランディ・レバインにも接触を試み、二人は2011年の11月に会った。ズロトニックさんはレバインに、自らのケガの写真を見せた。中には救命救急室で自撮りした痛々しい姿もあった。
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彼はレバインに、いくつかの球団は、危険であるとの理由から傘を開くことを認めていないと説明した。
「言ったんです。ヤンキースにも正しいことをして欲しい、と」
ズロトニックさんは回想する。
「オーナー達(共同オーナー)に、傘を禁止するように頼んで欲しい。私のようなケガを負う人が二度と出ないようにね」

(ヤンキースに、ズロトニックさんとレバイン球団社長の会話の内容を提示するよう求めたが、球団は拒否した)

ズロトニックさんはまた、治療費の請求が10万ドルにのぼり、そのうち約2万5千ドルを自己負担で支払ったと伝え、ヤンキース側に弁済して欲しいとレバインに述べた。レバインは答えた。「大丈夫。私が何とかします」

2012年のはじめ、音沙汰がないのでズロトニックさんはレバインに電話をかけた。するとレバインは、弁済に関しては弁護士と相談しなければならないと答えた。それから1週間後、レバインは――ズロトニックさんの話によればだが――言った。
「球団どしては、あなたのためにできることは何もない。顧問弁護士からは、あなたとは話をするなと言われている」
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2012年の終わり、他に選択肢はないと感じたズロトニックさんは、ヤンキースとMLBを相手取り、対人補償の訴訟を起こした。それは2万5千ドルの問題ではなかった。その額は工面できた。一番のねらいは、ヤンキースに傘に関する規定を変えさせ、MLBにはファンのケガを真剣に考えてもらうことだった。

冒頭でふれたチケットの約款の効果は大きく、ケガをしたファンがヤンキースやメッツを相手に裁判をして勝訴するのはほとんど不可能になっている。

「チケットの保持者は、野球という競技に起こりうるすべての危険やリスクに対して、責任を負うものである」
ヤンキースはチケットの裏側に、そう謳ってある。仮にファンがヤンキースタジアムでケガをしても、球団は一切の責任を取らないという法律上の決まり文句である。ズロトニックさんの弁護士であるエドワード・スタインバーグさんによると、ニューヨークの裁判所は、「リスクの想定」の原則とよばれるものを施行することに対して「厳し」かったという(これを「ベースボール・ルール」と呼ぶ人もいる)。スタインバーグ弁護士は対人補償が専門だが、普段はファンがケガをして訴えたいと言ってきても、依頼を断るという。勝訴の見込みがほとんどないからである。

しかし、ズロトニックさんのケースは別だと見た。スタインバーグ弁護士の法律的な意見では、試合中に傘を開くことを認めたヤンキースが、野球というゲームにおける危険性をより高めたのだという。
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2013年7月、州最高裁判事のリズベス・ゴンザレスは、宣誓証言の日程を取り決めた。証人に対し、双方が宣誓した上で質問するのである。2014年2月にズロトニックさんが宣誓証言をして4ヶ月後――スタインバーグ弁護士はヤンキース側の証人に質問できていない――、ヤンキース側の弁護士が法廷に駆けつけ、略式判決の申し立てをした。

「リスクの想定」という議論が今回のケースにおいては法的にやっかいである。すべての開いた傘ということなのだが、ヤンキースとMLBは審理の打ち切りを主張した。

それから1年半近くが経った現在、両者は未だにゴンザレス判事の判決を待っている(NYタイムズが2013年に記したように、ブロンクスの法廷は少々停滞気味である)。

2014年9月、ブルームバーグ・ニュースのデビッド・グロービン記者が、野球の試合における観客の怪我に関する記事を発表した。その中で特筆すべきは、ブルームバーグが統計分析をおこない――グロービンによれば初めてのことだそうだが――、試合中、とくにファウルボールや折れたバットでケガをしたファンの数を調べたことである。ブルームバーグが調べた数字を5人の統計の専門家に確認してもらった結果は、驚くべきものであった。1年間に1,750人である。グロービンの記事にはこうある。
「打者が死球をくらうのよりも多い数字である。昨シーズン、死球の数は1,536だった」
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もちろん、すべてがズロトニックさんのような大ケガというわけではないが、重症の例もかなりある。グロービンの記事には六歳の少女の例が書かれていて、アトランタ・ブレーブスの試合で「2010年に頭蓋骨を骨折し、手術を受けた」とあり、シカゴの7歳の少年は「2008年にライナーが頭を直撃して、深刻な脳の腫れに悩まされた」とある。

ズロトニックさんは私に、ローラ・トウレクさんというシングルマザーのケースを示した。ローラさんは昨年、ミルウォーキー・ブリュワーズとブレーブスの試合を観戦中にファウルボールが直撃し、脳震盪、複数の亀裂骨折、深刻な視力の低下という重傷を負った。治療費の請求は20万ドルを超えた。

トーニャ・カーペンターさんは6月、フェンウェイパークで折れたバットの一部を頭に受け、一時は命を危ぶまれる大ケガをした。トーニャさんの事故は全米のニュースになった。

怪我をした数字はファンにとっては驚きかもしれないが、野球のコーチや選手にとっては驚くに当たらない。

「ビビっちゃうこともあるよね。誰かがちょっとぶつけられると」
ブレーブスの監督、フレディ・ゴンザレスはグロービン記者に語った。
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元外野手のマット・ステアーズ(中日でもプレー)は以前シカゴ・トリビューンの取材に、自分は娘たちをダグアウト近くの席には座らせないと語っている。
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ほかの選手たちの多くも、同様のルールを持っている。彼らは年中試合を目の当たりしているので、そうした観客席がどれだけ危険かを知っているのだ。

過去の度重なる契約交渉のあいだ、メジャーリーグ選手協会(選手の組合)は、ファンの安全についての話し合いを求めてきた。球団側がバックネットを左右のファウルラインまで伸ばすべきだという主張である。が、この議論はラチがあかなかった。

野球界が保護ネットを広げるのに反対するのはなぜか?大きな理由としては、ファンとフィールドに近い高額のシートとの間にバリアーを作り、観客の興を削いでしまうということがある。球界は長年、この問題を否定してきた。
「ファウルボールによるケガが増えているということもないし、コミッショナー事務局としての動きもありません」
MLB幹部のジョン・マクヘイルはグロービン弁護士に語っている。

集団訴訟

『野球場での死』の著者、ボブ・ゴーマン氏は、ファンのケガについてブログでつづっている。
「誰かが死なないと、何も行動する気がないように思える」
彼の指摘によると、2002年3月にオハイオ州コロンバスでおこなわれたNHLの試合で、少女にパックが直撃して少女はその後亡くなるという事故があった。NHLがリンクの両エンドとコーナーに高性能防護ネットの設置を義務付けたのは、それから3ヶ月後のことだった。
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7月半ば、主だった二つの原告団が、すべてのシーズンチケット保持者を代表し、MLBとコミッショナーのロン・マンフレッドを相手取り集団訴訟をおこした。原告側の発表によれば、マンフレッドは「ファウルボールや折れたバットに対する安全措置を講じる義務を怠り、数々の職務怠慢や虚偽の陳述があった」などとしている。
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                   <すきっ歯はボールが当たったか?>

訴訟を起こした弁護士の一人、ボブ・ヒジャードは、「リスクの想定の原則」ではもはや野球というスポーツを守ることはできない、と語る。選手たちはどんどん大きく、強くなり、新しい球場はシートがファウルラインに近いことが多い。そして球団はファンを飽きさせないために工夫を凝らしゲームから目を離す要素が多いのである。たとえ注意を払っているファンといえど、強烈なファウルボールをかならずしも避けきれるものではない。
「防ぎようのないリスクの想定なんて、できるわけがありません」
ヒジャードは言う。

単なる偶然かもしれないが、木曜日、コミッショナー事務局は、「まもなく2016年シーズンのネット設置に関する勧告を出す」と発表した。広報によると、詳細は1月のオーナー会議の後に明らかになるという。

ズロトニックさんは現在は健康そうに見えるが、実際はそうではない。顔の左側を誰かに触られるたびに痛みが走り、視野はボヤけ、口には麻痺が残る。妻のジェニー・ラフィーさんは、彼が痛がるので顔の左側にキスすることもできないという。ケガが夫を変えてしまった、とジェニファーさん。
「性格に明るさがなくなってしまいました。ボールが彼を壊してしまったかのようです」

ヤンキースはどうか?球団としては、(ネットを設置すると)ファンが危険性を認識し、フィールド場で何が起きているかに注意を払うという本筋から外れてしまう、という姿勢だ。また球団は、安全性に不安を感じるファンに対しては、座席の変更にも応じるという。2011年8月のズロトニックさんのケガに関しては、ヤンキースは法的責任を負わないと考えている。

だが2011年シーズン終了後、ヤンキースは傘に関する規定を変更した。ファンは球場内に傘を持ち込むことは今までどおりOKだが――試合の進行中に傘を使用してもよい――大きすぎるサイズの傘を禁止とし、傘を開いて「他の観客の視野を妨げる」行為も歓迎しない、というものである。新しい規定によると、「他のファンの妨げになる場合は傘を閉じていただく場合があります」となっている。

野球界は、ファンの安全が第一、とよく言う。ネットをファウルラインに広げ、試合中に傘を広げることを禁止する規定をリーグが儲けるというのなら、私はその言葉を信じよう。それまでは信じない。
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