癌の告知
医師と患者の関係はいかにあるべきか?
ニューヨーク・タイムズに、ある医学博士が寄稿しておりました。
ある金曜日の午後、私の友人の父親に、医師団が膵臓ガンを告げた。友人の奥さんからのその話を聞いたときは本当に驚いた。その父親は長らく民主党の活動家なのだが、私は彼に2ヶ月ほど前に会っていた。その時は大統領候補について熱心に語り合ったものである。目の前の快活な男性の腹部にガンが潜んでいるなど、私は思いもよらなかったのだ。
だが、仮に私が彼の病気を疑っていたとしても、その事を彼に伝えていただろうか?
医師が病理検査報告書を持って病室に来る数時間前、友人は父の病状がわかっていた。膵臓に悪性腫瘍があると知っていた。それは医師がガンの疑いがあると言っていたからではなく、告知前、医師が患者の息子である友人の目を見ることができなかったからである。
診断結果は、医師の身振りの中にあった。
「結論がはっきり出るまで、うっかりしたことを言えないというのは理解できます」友人の妻はのちに言った。「でも彼らはガンを強く疑っていたんです。どうして私たち家族が蚊帳の外だったのか」
私も医師の1人として、患者や家族の疑念の視線をなるべくなら避けてきた。話をするときは慎重に、言葉を選んだ。当て推量を口にして本人たちを心配させたり、怒らせたり、あるいは希望をなくしたりするのが怖かったのである。
これは私に限った話ではない。だが医師たちは患者を守ろうとするあまり彼らを見誤り、結果として病気の疑いを伝えないことになる。医師は患者やその家族を必要以上に脆い存在だと思い込み、病気の疑いを伝えないほうが彼らのためだと考える。そして状況を悪くすることにもなるのだ。
専門が何であるにせよ、コミュニケーションが医師の仕事における中核である。2002年から、全米医科大学協会と医学部卒業認定評議会(正式な呼び名は知りません。くにちゃんは医者じゃないから専門用語も間違うと思うけど勘弁して)は、医学部や専門医学実習における必須スキルを6つ定め、そのうちの1つに対人コミュニケーションをあげている。
しかし、多くの医師は患者との対話を悲しいくらいに避けたがるものである。2007年の実験では、医師に架空の診察を行なわせた。役者がガン患者に扮し、寛解(病状がなくなること)していることを装うのである。医師はその(にせ)患者に、ガンが再発した、と告知しなければならない。実験に加わった医師のうち、「ガン」という言葉を口にしたのは20%にも満たなかった。
医師と患者の関係において、非言語コミュニケーションの調査となるとさらに乏しい。言葉によらない仕草や、「感受性」などの個人的な特性を測ることは難しいからだ。それでも研究は繰り返し行なわれ、1つの発見があった。医師は必ずしも患者の感情を見極めるのが上手くない、ということだ。確かに私たちは、心配、怒り、失望などといったものを読み取るのは極めて下手である。
別の研究では、医師は患者の心配、怒り、失望などを、実際よりも大げさにとらえていることがわかった。また医師は、患者が自分の診察を受け、会話をしても満足していない、と必要以上に思い込む傾向にあった。
病気や衰弱に常に注意を払う職業にあっては、この調査結果は驚くにあたらない。最悪の事態を想定するというのは、むしろ職業病と言っていいかもしれない。それしにても私たち医師は、悪いニュースの衝撃をなるべく和らげようとして、事態をより悪くしてしまったりするのである。
コミュニケーションの技術は学んで習得することが出来るという研究結果も出ている。たとえば、先述した20%たらずしか「ガン」という言葉を使わなかった医師たちに、4日間集中してコミュニケーション技術を叩き込んだところ、あきらかに対人コミュニケーションが向上した。その半数以上が患者との対話で「ガン」を口にしたのである。
私の友人の父とその家族は、膵臓ガンを知らされてショックを受けた。だが、その後数週間、彼らは事実を受け入れ、立ち直っていった。私は考えた。医師というのは一体、誰を守ろうとしているのか?
患者とのコミュニケーションを向上させる第1歩は、これを認識することだ。
「患者というのは、医者なんかよりよほどたくましいのかもしれない」
ニューヨーク・タイムズに、ある医学博士が寄稿しておりました。
ある金曜日の午後、私の友人の父親に、医師団が膵臓ガンを告げた。友人の奥さんからのその話を聞いたときは本当に驚いた。その父親は長らく民主党の活動家なのだが、私は彼に2ヶ月ほど前に会っていた。その時は大統領候補について熱心に語り合ったものである。目の前の快活な男性の腹部にガンが潜んでいるなど、私は思いもよらなかったのだ。
だが、仮に私が彼の病気を疑っていたとしても、その事を彼に伝えていただろうか?
医師が病理検査報告書を持って病室に来る数時間前、友人は父の病状がわかっていた。膵臓に悪性腫瘍があると知っていた。それは医師がガンの疑いがあると言っていたからではなく、告知前、医師が患者の息子である友人の目を見ることができなかったからである。
診断結果は、医師の身振りの中にあった。
「結論がはっきり出るまで、うっかりしたことを言えないというのは理解できます」友人の妻はのちに言った。「でも彼らはガンを強く疑っていたんです。どうして私たち家族が蚊帳の外だったのか」
私も医師の1人として、患者や家族の疑念の視線をなるべくなら避けてきた。話をするときは慎重に、言葉を選んだ。当て推量を口にして本人たちを心配させたり、怒らせたり、あるいは希望をなくしたりするのが怖かったのである。
これは私に限った話ではない。だが医師たちは患者を守ろうとするあまり彼らを見誤り、結果として病気の疑いを伝えないことになる。医師は患者やその家族を必要以上に脆い存在だと思い込み、病気の疑いを伝えないほうが彼らのためだと考える。そして状況を悪くすることにもなるのだ。
専門が何であるにせよ、コミュニケーションが医師の仕事における中核である。2002年から、全米医科大学協会と医学部卒業認定評議会(正式な呼び名は知りません。くにちゃんは医者じゃないから専門用語も間違うと思うけど勘弁して)は、医学部や専門医学実習における必須スキルを6つ定め、そのうちの1つに対人コミュニケーションをあげている。
しかし、多くの医師は患者との対話を悲しいくらいに避けたがるものである。2007年の実験では、医師に架空の診察を行なわせた。役者がガン患者に扮し、寛解(病状がなくなること)していることを装うのである。医師はその(にせ)患者に、ガンが再発した、と告知しなければならない。実験に加わった医師のうち、「ガン」という言葉を口にしたのは20%にも満たなかった。
医師と患者の関係において、非言語コミュニケーションの調査となるとさらに乏しい。言葉によらない仕草や、「感受性」などの個人的な特性を測ることは難しいからだ。それでも研究は繰り返し行なわれ、1つの発見があった。医師は必ずしも患者の感情を見極めるのが上手くない、ということだ。確かに私たちは、心配、怒り、失望などといったものを読み取るのは極めて下手である。
別の研究では、医師は患者の心配、怒り、失望などを、実際よりも大げさにとらえていることがわかった。また医師は、患者が自分の診察を受け、会話をしても満足していない、と必要以上に思い込む傾向にあった。
病気や衰弱に常に注意を払う職業にあっては、この調査結果は驚くにあたらない。最悪の事態を想定するというのは、むしろ職業病と言っていいかもしれない。それしにても私たち医師は、悪いニュースの衝撃をなるべく和らげようとして、事態をより悪くしてしまったりするのである。
コミュニケーションの技術は学んで習得することが出来るという研究結果も出ている。たとえば、先述した20%たらずしか「ガン」という言葉を使わなかった医師たちに、4日間集中してコミュニケーション技術を叩き込んだところ、あきらかに対人コミュニケーションが向上した。その半数以上が患者との対話で「ガン」を口にしたのである。
私の友人の父とその家族は、膵臓ガンを知らされてショックを受けた。だが、その後数週間、彼らは事実を受け入れ、立ち直っていった。私は考えた。医師というのは一体、誰を守ろうとしているのか?
患者とのコミュニケーションを向上させる第1歩は、これを認識することだ。
「患者というのは、医者なんかよりよほどたくましいのかもしれない」


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