ワルの背泳ぎの時代

以下、2019年12月18日付Swimming World。

背泳ぎ革命

水中ドルフィンキックが背泳ぎの様相を一変させてから、30年以上が経過した。1988年ソウル五輪では、そのキックが最も重要な役割を演じることとなった。
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かくれんぼ、とでも呼べばいい。デッキの審判やコーチ、あるいは客席を埋め尽くした観衆までもが、思った。彼らはいつになったら浮かび上がるんだ?最初に浮かんでくるのは誰だ?あれがどういう風に有利になるんだ?レース後半のダメージはどのくらいなんだ?

韓国の地で、日本の鈴木大地は100m背泳ぎで金メダルを獲得した。米国のデビッド・バーコフ、ソ連のイゴール・ポリャンスキーらとの戦いを制し、レースのほぼ半分を潜って勝利したのだ。スタートからの潜水距離は30mだった。

(夏季)五輪大会が1964年以来はじめて日本に戻ってくるが、スズキは日本のスポーツ界において重要な役割を担っている。我々にとっては、東京を目指す前に歴史を振り返る、良いタイミングかもしれない。なかでも鈴木のキャリアを決定づけたレースを振り返るべきである。背泳ぎという種目が何でもアリになってしまった時代だ。
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時代を先取り

ジェシー・バサイヨ(バサロ)のキャリアを評価するとき、それはつねに「たられば」の視点で語られることになる。強盗の被害にあったのは彼だけではないが――政治家たちが泥棒の仕事をした――、1980年モスクワ五輪を米国がボイコットしたことによって、バサイヨは最も影響を受けた選手の1人だった。1978年の世界選手権で3つのメダルに輝き、うち200Baと400IMで優勝したバサイヨは、モスクワでも大活躍が期待された。

だが、当時のジミー・カーター大統領はオリンピック選手を政治的取引の取引として利用し、バサイヨはその犠牲となった。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する意味で、カーターはなぜか、モスクワ五輪に選手を派遣しないことがひとつのメッセージになると考えた。ある意味、メッセージは届けられた。カーターは基本的に、選手が長年を費やした努力や時間には何の意味もないと伝えたのだ。

当時のバサイヨは選手としてのピークを迎えていて、このボイコットはキャリア最高のパフォーマンスとなる機会を、彼から奪った。なおさら悔やまれることに、彼の持つ400IMの世界記録は、モスクワ大会の優勝タイムよりも2秒以上速かったし、200Baの自己ベストならば銀メダルを獲得していたであろうタイムだった。そのかわり、何も得ることはなかった。

バサイヨは五輪の栄光を奪われたことでも記憶されるが、イノベイターとしても記憶に残る存在だった。大男が幅をきかせる競泳において、彼は身長がわずか170㎝ほどであるにもかかわらず世界のトップレベルで活躍した。小柄であることのマイナス要素があるとすれば、隣のレーンがパワフルで大きな選手の場合、相手の作る波をまともに受けてしまうことであった。
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そこで、バサイヨは一計を案じた。

「スタートから水中を潜って進むことに決めた。そしてそれはうまくいった」
バサイヨはドキュメンタリー『ドルフィンキックがいかにして水泳を変革したか』のインタビューで、そう答えている。
「そのあとドルフィンキックに磨をきかけて、ターンでも使うようにした。オリジナルは僕かもしれないけれど、他の選手でも五輪レベルでやるようになったよ」

水中の才能を最大化するというバサイヨの決断は、その発展において悪意のないものだったかもしれない。だが究極的には、これが水泳というスポーツを変えてしまうことになった。

ゲームを変える技術革新

水中動作を伸ばすという、遊びにも似た試みは、バサイヨには有益だったかもしれないが、方法論としてはすぐに主流になったわけではない。それでも、この戦術を模倣する選手はわずかながら存在した。なかでも日本の鈴木大地は、1984年ロサンゼルス五輪の100Ba予選で、最初の25mを潜った。しかし鈴木は決勝には進むことが出来ず、その後、世界がこの戦略を一時的に忘れ、彼だけが独自の道を歩むことになった。

スズキが独自のスタイルで、ロサンゼルスでは結果を出すことはできなかった一方、バーコフは、水中動作を長くすればタイムを短縮できる可能性があることを悟った。バーコフは1985年にハーバード大に入り、ジョー・バーナルの指導を受けたが、当初はそこそこの背泳ぎ選手だった。彼はドルフィンキックの実験を何度も何度も繰り返した結果、水面を泳ぐよりも水中を進むほうが速いことを知った。この新しいアプローチに勇気づけられ、バーコフは瞬く間に記録を伸ばし、1987年には100ヤード背泳ぎでNCAA記録を塗り替えた。

長水路ではその技術に磨きをかけ、35mから40m潜れるまでになった。長時間の無酸素状態はレース後半にそのツケが回ってくるが、ドルフィンキックのアドバンテージはそれを補って余りあるものだった。バーコフは1988年の五輪代表選考会で、世界新を2度マークし、100Baで史上初めて55秒の壁を破った。予選で54秒95を出し、決勝ではさらに54秒91まで伸ばした。一躍ソウルの金メダル候補となり、"Berkoff Blastoff"(blast off=発射する、飛び出す。「ロケット・バーコフ」みたいな意味)という異名も授かった。

「大学一年で初めてドルフィンキックをやったら、コーチはみんなバカにした」
バーコフは大学院時代に語っている。
「お前そんなのやったら後半死ぬぞって。でも僕は毎年キックの距離を伸ばした。誰にでも向いているってわけじゃないと思うけど、でも背泳ぎのスプリントの概念を変えることになるよ」

ソウルでの対決

1988年ソウル五輪が始まると、水中動作を伸ばす戦術は当たり前になっていた。100Baでの決勝に進んだ8人のうち5人までが25m以上潜り、中には35m潜る選手もいた。だが勘違いしてはいけない。この決勝は間違いなく、バーコフ、鈴木、ポリャンスキーの3人による争いだった。

予選で54秒51の世界新をマークしたバーコフは、決勝でも勝てる自信をさらに深めた。スタートしてプール中央ではバーコフがリードし、35mで浮き上がった時点で金メダルに片手がかかっていた。が、スズキとポリャンスキーも潜水泳法を駆使し、ターンの時点で射程圏内につけていた。
スズキとポリャンスキーは1ストロークごとにバーコフとの差を詰め、スズキが最後のひとかきでバーコフをかわし、55秒05で優勝。銀メダルがバーコフ(55秒18)、ポリャンスキーが銅(55秒20)となった。予選の泳ぎからすればバーコフの敗戦は驚きだったが、スポーツには番狂わせがつきものだ。

スズキがバーコフよりも先にゴールタッチをして逆転勝ちがなった時、彼は五輪競泳では1972年以来となる日本人スイマーの金メダリストとなった。1972年のミュンヘンでは,田口信教が100Brで、100Flyで青木まゆみがそれぞれ優勝している。ミュンヘンはマーク・スピッツシェーン・グールドが大活躍した大会である。

引退後のスズキはスポーツ界で要職につき、日本水泳連盟の会長になった後、現在はにスポーツ庁長官をつとめている。国際水泳殿堂入りが確実なスズキは、いまでもソウルの緊張感を覚えている。彼は決勝の重圧をどう克服したのだろうか。

「レース直前、僕はwarrior(戦士)になった」
スズキはオリンピックチャンネル・ドキュメンタリーで語っている。
「1番になることしか考えていませんでした。自分は3レーン。選手紹介のとき、僕は観客席に手を振った。歩くと脚が震えているのが分かった。それで自分がすごく緊張していると気づいたんです。隣の4レーンにはデビッド・バーコフがいた。彼の顔を見たら、僕よりもさらに緊張しているように見えた。それで緊張しているのは僕だけじゃないんだと思った。これは勝てるかもしれないと」

果たして、結果はその通りになった。

スズキは背泳ぎ史上最大の戦いを制して金メダルを獲得したが、バーコフとポリャンスキーもまた、それぞれの栄光をつかんだ。バーコフは400mメドレーリレーで金メダルを獲得し、彼の正式計時は歴代2位の54秒56だった(勝負弱い選手がリレーのほうが速いのは、水泳あるある)。ポリャンスキーは200Baで優勝した。

ルール変更

背泳ぎという種目が、潜った者勝ちというような状態になったことをFINA(国際水連)は喜ばず、ソウル後まもなく、スタートからの潜水を10mに制限するルールを設けた。この決定はバーコフのような選手には罰にも等しいものであった。彼らはアスリートとしてだけでなく、創造性という観点からも革命的であったからだ。

「FINAの決定には本当に頭にきたよ」
バーコフはルール変更について語った。
「まったくバカげている。僕は1年前から引退するって決めていたから、実際は関係ない。でもこれからの選手、子供たちにとっては恥ずかしい決定だ。僕はFINA怒らせたってことだろう。彼らは言ったよ。”デビッド、物事はそう簡単にはいかないんだよ”。僕は彼らの領分に対して何事かをした。FINAよりも先を行ってしまったってことだと思う」

「ソウルまでの4年間の努力が否定されるみたいで腹が立つし、成功を収めた後でも、お前はもうこれをやっちゃいけないなんて言われたら悔しいよ。試行錯誤とハードワークの繰り返しだったんだからね。FINAの条件反射みたいな反応はビンタみたいな侮辱だ」

1991年、FINAは潜水のルールを15mにあらためた。引退から3年後、バーコフは現役復帰し、1992年のバルセロナ五輪の代表となった。2回目の五輪でバーコフは100Baで銅メダルに輝いた。だけではない、彼は自身が単にルールの抜け穴を利用しただけの選手ではないことを証明したのだ。バーコフは素晴らしいバックストローカーだった。水中でも、水の上でも。

忘れ得ぬ出来事

ジェシー・バサイヨが先駆者として潜水の距離を伸ばしたのが1970年代後半から80年代前半。デビッド・バーコフはその戦術を最高レベルにまで高めたのが80年代後半だった。一方の鈴木大地は、この技術に大きな優位性があることを理解し、それを選択して五輪覇者となった。
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競泳の技術革新は、つねに記憶に刻まれるものである。ゴーグル、スタート台、レーンライン(コースロープ)、インターバルトレーニング・・・。これらはすべて選手の能力に影響を与え、長年記録を伸ばしてきた。背泳ぎにおいては、この時代は決定的に重要だった。ほんの一握りの選手たちが、常識の埒外のアプローチで成功を目指したのである。

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